政治哲学史講義 「序論」
政治哲学史講義 「序論 —— 政治哲学についての見解」
第1節 「政治哲学をめぐる4つの問い」
政治哲学史講義 「序論」#69d73de60000000000a6f6b0
第2節 「政治哲学の四つの役割」
政治哲学史講義 「序論」#69d73e1f0000000000a6f6b3
第3節 「リベラリズムの主要な観念 —— その源泉と内容」
政治哲学史講義 「序論」#69d73e1f0000000000a6f6b4
第4節 「リベラリズムの中心テーゼ」
政治哲学史講義 「序論」#69d73e1f0000000000a6f6b5
第5節 「初期状況」
政治哲学史講義 「序論」#69d73e1f0000000000a6f6b6
第1節 「政治哲学をめぐる4つの問い」
1
1-1
まず、政治哲学をめぐるいくつかの問いを挙げることから講義をはじめたいと思います。
わたしたちはそもそも、なぜ政治哲学に関心をもつのでしょうか。わたしたちが政治哲学について考える理由とは何でしょうか。そうすることでわたしたちは何を得られる —— 得られるものがあるとして —— と期待しているのでしょうか。このような気構えをもって、わたしたちの考察にとって有益かもしれないより限定されたいくつかの問いを検討したいと思います。
1-2
次の問いからはじめましょう。
〔 第一の問い〕
政治哲学の聴衆とは誰でしょうか。
その聴衆は、社会構造や直面している問題に応じて社会ごとに異なっています。ですから、ここでは立憲デモクラシーの社会における聴衆とは誰か、と尋ねましょう。まずはじめに、わたしたちの社会では誰がその聴衆なのか見てみましょう。
1-3
デモクラシーにおいては明らかに、この問いに対する答えはこうなります。
すべての市民一般がその聴衆です。言い換えれば、投票によって —— 必要とあらば憲法を修正することによって —— すべての政治的問題に対して制度上の最終的な権威を行使するすべての人々からなる一団としての市民です。
民主的な社会における政治哲学の聴衆とは市民団 the body of citizens であるということは、重要な帰結を持ちます。
1-4
このことは、一つには、もとより立憲デモクラシーという観念を受け入れ擁護するリベラルな政治哲学は、いわば一個の〔専門的な〕理論とはみなされないということを意味します。
そうした教義を著す者を、特殊な主題に関する専門家とみなすことはできません。科学についてはそうみなすことも可能でしょうが。
政治哲学は、正義や共通善についての根本的な真理や理に適った観念への、あるいは他の基本的な考えへの特別な通路をもっているわけではありません。
政治哲学が何らかのメリットをもちうるとしたら、それは、民主的な体制〔レジーム〕の制度や政策についての、わたしたちの判断を明確にするのに役立つような、基本的な政治観念をめぐる諸構想を —— 研究と省察を通じて —— より深く、より有益なものに洗練していくことができるということにあります。
2
2-1
第二の問いはこうです。
こうした聴衆に呼びかける際、政治哲学の信憑性を証すものは何でしょうか。それは何によって権威を主張しうるのでしょうか。
私がここで「権威」という言葉を用いるのは、道徳的・政治的哲学の著作家のなかには、少なくとも暗黙のうちに一定の権威を主張する者もいるからです。政治哲学は認識の要求を担うものであり、この認識への要求は支配への要求にほかならないと語られてきました。このような主張は、完全に誤っていると私は思います。少なくとも、民主的な社会においては、政治哲学はいかなる権威ももちません。
権威という言葉が、ある種の政治的問題に対する一定の地位や権威的な重みの保有を意味し、あるいは、また別の意味で、長きにわたる習慣や慣行によって是認され、明証的な力をもつものとして扱われる権威を指すとすれば、政治哲学にはいかなる権威もありません。
2-2
政治哲学が意味しうるのは政治哲学の伝統にほかなりません。そしてデモクラシーにおいては、この伝統はつねに著作家と読者の共同の仕事〔ジョイント・ワーク〕です。この仕事は共同のものです。というのも、世代を越えて政治哲学の作品を生みだし、それを大切に育てるのはその著作家と読者がともに行なうことですし、それらが提起する諸観念を基本的な制度に具体化するかどうかはつねに有権者に委ねられているからです。
2-3
このようにデモクラシーにあっては、政治哲学の著作家は、他のあらゆる市民が持つ以上の権威を持ちませんし、それを主張してはならないのです。私は、これを完全に明白であると考えていますし、ときにそれとは反対のことが主張されるとしても、いかなるコメントも必要ないと考えています。このことについての懸念は脇に置きさえすればよいと言っておきましょう。
2-4
もちろん、次のように言う人がいるかもしれません。政治哲学は、人間理性の信憑性を望むのであり、暗黙のうちにその権威を引き合いにだしているのだ、と。端的に言って、そうした人間理性は、理性を身につける年齢に達したすべての正常な個人、言い換えれば、成年のすべての正常な市民が行使する、熟慮された思想、判断、推論の共有された力にほかなりません。このことに同意して、政治哲学はこの意味での権威を引き合いにだすのだと想定してみましょう。
しかしまったく同様に政治的問題についてのみならず、他のいかなる問題についても、他者に呼びかける際に理性的にかつ誠実に語るあらゆる市民も、この権威を引き合いにだすと想定しましょう。わたしたちが人間理性の権威と呼んだものを求めることは、わたしたちが自分の見解を、他者がそれをきちんと理解して判断できるように、それを支持する理由を、理に適った適切な仕方で挙げながら提起しようとすることを意味します。人間理性の信憑性を得ようとすることは、どのような主題についても、政治哲学を他のあらゆる理性的な議論から区別するものではありません。あらゆる理性的で誠実な思考は、人間理性という権威を求めます。
2-5
民主的な社会において世代を越えて読み継がれ、引き続き研究されているテクストに見られるような政治哲学は、実際、根本的な民主的な教義や観念についての並外れて体系的で完成度の高い言明として表現されていることもあります。そのようなテクストは、読み継がれることのないテクストと比べて、議論がよりしっかりとし、より明晰に表現されたものであるかもしれません。その意味で、そうしたテクストは、人間理性の権威をより成功裡に引き合いにだすことができるでしょう。
とはいえ、人間理性の権威はとても特殊な種類の権威です。というのも、政治哲学のテクストがそうしたアピールを成功裡になしうるか否かは、わたしたちの集合的な判断にかかっているからです。それは世代を越えて、社会の一般的な文化のうちで、市民の一人ひとりが、そのテクストが研究と省察に値するかどうかについて、下す判断に依存しているのです。この場合には、最終的な決定権、さらには暫定的な決定権をもつことが正義であると認められた公職者や法廷や立法団体は存在しません。理性の作用を評価するのは、公式の団体の仕事ではなく、習慣と長年にわたる慣行によって正統なものと認められてきた団体〔市民団〕の仕事なのです。
2-6
この事情は政治哲学に特有のものではありません。同じことは、あらゆる科学者、もっと限定して言えば、あらゆる物理学者の共同体にも当てはまります。たとえば、一般相対性理論が正しいか否かを宣言する権威をもった制度的な団体はそこには存在しません。
デモクラシーにおける政治的正義について言えば、市民団が、この場合のあらゆる科学者の団体に類似した位置にあります。このことは、近代の民主的な世界に特有の事柄であり、政治的な自由と平等についてのその観念に根ざしています。
3
3-1
第三の問いはこうです。
政治哲学は、どの地点でどのような仕方で民主的な政治に参入し、その行方に影響を及ぼすのでしょうか。この点に関して、政治哲学は自らをどのように理解すべきなのでしょうか。
3-2
それについては少なくとも二つの見解があります。
〔一つ目の見解〕
たとえば、プラトン的な見解は、政治哲学は正義と共通善についての真理を確定するものである、という見方をとります。
この見解は次いで、その真理を人々が自由に受け入れるかどうか、さらには人々が理解してそれを受け入れるかどうかに関わりなく、それを制度に現実化していく政治的行為者を求めます。
この見解によれば、政治哲学による真理の認識は、それが政治の行方を形づくり、それを —— 説得によって、必要とあらば強制力をもって —— 統制することさえ正当化します。プラトンの哲人王、レーニンの革命的前衛がその証左です。
この場合には、真理への主張は認識への主張だけではなく、政治的に統制し、行動することへの主張も担っていると理解されるのです。
3-3
〔二つ目の見解〕
もう一つの見解、つまり民主的な見解は、政治哲学は民主的な社会の一般的な背景文化の一部である、とみなします。
もっとも、特定の古典的なテクストが公共的な政治文化の一部となる数少ないケースもあります。しばしば引用され、参照されることによってそれらは公共的な知恵の一部となり、社会の基本的な政治的観念のファンドとなります。
そのようなものとして政治哲学は、その基本的な観念とその歴史が論じられ、研究される市民社会 Civic Society の文化に貢献することがあり、またある場合には、公共の政治的討論に参入することもあります。
3-4
〔学術的な政治哲学〕
今日流布している学術的な政治哲学の文体やスタイルを好まない著作家もいて、彼らはそれが、日々の民主的政治 —— 政治という偉大なゲーム —— を避け、これを不要にしていると見ています。そうした著作家によれば、学術的な政治哲学は実際にはプラトン的なのです。それは、基本的な真理を提供しよう、少なくとも主要な政治的問題に解答を与え、解決しようとしており、通常の政治を不要なものにしてしまっていると言うのです。
哲学に対して批判的な著作家はまた、通常の政治は哲学の助けなしで、その論争に気を煩わせることなく、それだけで上手くやってゆけると考えています。そういう仕方でやってゆけば、より活発で生き生きとした公共的生活が、そして政治にもっと能動的に関与する市民団が生まれるだろうと彼らは考えるのです。
3-5
さて、リベラルな政治哲学は先に定義した意味でプラトン的であるというのは、明らかに正しくありません。リベラリズムは民主的な統治という観念を肯定するのですから、それが日々の民主的政治の行方を覆すなどということはありません。
デモクラシーが現に存在するかぎり、リベラルな哲学がデモクラシーに対して適切な仕方でそのように振る舞うことがあるとしても、それは、正統なものとして立憲的に受任された政治的行為者に影響を与え、この行為者に民主的な多数者の意思を覆すよう説得することだけに限られます。
哲学のリベラルな著作家にとってこうしたことが生じうる一つの途は、わたしたちの体制のような立憲体制において最高裁判所の判事に影響を及ぼすことです。
ブルース・アッカマン、ロナルド・ドゥオーキン、フランク・マイケルマンといったリベラルな学術的著作家は、最高裁判所を名宛人として語ることもありますが、そういうことは多くの保守主義者や他のリベラルではない著作家たちも行っていることです。彼らは憲法政治に携わっているのだ、という言い方もできるでしょう。
わたしたちの立憲システムにおける最高裁判所の役割を考えると、民主的な政治を覆す試みのように見えるものは実際には、司法審査を受け入れる、つまり、憲法が通常の立法上の多数者の意思が及ばないところに一定の基本的な権利や自由を位置づけている、という観念を受け入れている、ということにほかならない場合があるのです。
こうして、学術的な著作家をめぐる議論はしばしば、多数決の範囲と限界についての、また、基本的な憲法上の自由を特定しそれを擁護する、最高裁判所固有の役割についての、議論になっているのです。
3-6
したがって、司法審査を受け入れるか否か、
そして民主的な憲法は、憲法政治に対比される通常政治において、立法上の多数者の意思が及ばないところに一定の根本的な権利や自由をおくべきとする観念を、わたしたちが受け入れるかどうかに、
多くは依存します。
この点について私は、司法審査を受け入れたいと思いますが、いずれの立場にも十分な論拠があり、これは民主的な市民が自分で考察しなければならない問題なのです。
重要なのは二つの構想、すなわち立憲デモクラシーと多数決主義的デモクラシーのいずれを選ぶかを決めることです。いずれにしても、司法審査を支持する者でさえ、通常政治においては、いつも立法上の多数者が統治することを当然のこととみなしています。
3-7
わたしたちの第三の問いはこうでした。
「政治哲学は、どの地点でのような仕方で民主的な政治に参入し、その行方に影響を及ぼすのか。」この問いにはこう答えましょう。
司法審査をそなえる体制において政治哲学は、少なくとも憲法上の事柄に関しては、大きな公共的役割を果たす、と。その際、しばしば議論の的となる政治的な争点は、民主的なシティズンシップの基本的な権利と自由に関わる憲法上の争点なのです。
(私見: シティズンシップ)
Citizenship
書籍: シティズンシップ : 民主主義をいかに活用すべきか
これ以外のところでは、政治哲学は、背景文化の一部として教育的な役割を担います。この教育的役割が、わたしたちの第四の問いの主題です。
4
4-1
政治的見解とは、政治的正義と共通善についての見解、どのような制度や政策がそれらを最もよく促進するかについての見解です。市民は、基本的な権利や自由について判断を下すことができるべきだとすれば、何らかの仕方でこれらの観念を習得し、理解しなければなりません。そこでこう問いを立てましょう。
〔 第四の問い〕
市民は、人格や政治社会についてどのような基本的な構想、どのような自由や平等、正義やシティズンシップの理想を、民主的な政治にまずもって導き入れるのでしょうか。
市民はどのようにしてそうした構想や理想にしだいに愛着をいだくうようになり、どのような考え方がその愛着を支えるのでしょうか。どのような仕方で市民は統治について学び、それについてどのような見解を獲得するのでしょうか。
4-2
立憲体制を構成する市民がそもそも、その基本的な政治制度を是認し、強化する根本的な構想や理想をもって民主的な政治に加わるのではなないとしたら、立憲体制は長くは持ちこたえられないように思われます。
さらに言えば、こうした政治制度は、市民が自分自身でそのような構想や理想を支えるときに最も堅固なものになります。
とはいえ明らかに、市民がこうした理想や構想を獲得するのは、一部には —— あくまで一部にすぎないとしても —— 市民社会の一般的な背景文化に属する政治哲学の著作からです。市民がそれらに出会うのは、学校や大学、専門職大学院における対話や読書においてです。市民はまた、新聞やオピニオン誌において、そうした観念について論じる論説や討論を眼にします。
4-3
いくつかのテクストは、市民社会の一般的な文化と対比される公共的な政治文化に位置づけられるだけの地位をもちます。独立宣言や憲法前文、リンカーンのゲティスバーグ演説の一部を暗記させられた人はどれくらいの数にのぼるでしょうか。これらのテクストは権威的なものではありません —— 憲法前文は法としての憲法の一部ではありません —— が、わたしたちの憲法の理解や解釈にある仕方で影響を与えているはずです。
4-5
しかも、これらのテクスト —— 〔もしあるとして〕同等の位置を占める他のテクスト —— において表明されている価値は、こう言っていいでしょうが、政治的価値です。それは定義されているのではなく、指し示されているにすぎません。たとえば、憲法前文は次の言葉を上げています。
—— より完全な結合 Union 、正義、国内の静穏、共同の防衛、一般的福祉、自由の恵沢 ——
独立宣言はこれに平等の価値を加えており、それを平等な自然権に結びつけています。
4-6
これらを政治的価値と呼んでも差しつかえないでしょう。私は、正義の政治的構想とは、これらの価値に理に適った体系的で整合的な説明を与えようとするもの、そして、基本的な政治的・社会的制度に適用する際にそれらがどのように順序づけられるべきかについて述べようとするものだと考えようと思います。
政治哲学のほとんどの著作は、しばらくは読み継がれるとしても、一般の背景文化に属します。しかしながら、最高裁判所や、根本的な問題をめぐる公共の討論において繰り返し引かれる著作は、公共的な政治文化ないしその近辺に属するものであるとみなすことができます。
実際、二三のもの、ロック『統治二論』第2篇やミル『自由論』は、少なくともアメリカ合衆国においては、政治文化の一部をなしていると見ることができるでしょう。
4-7
市民は、民主的な政治に参加する前に、その根本的な構想や理想をほかならぬ市民社会から最もよく学ぶのだと私は示唆してきました。そうでないとしたら、民主的な体制は、かりにそれが誕生したとしても長続きはしないでしょう。
ワイマール憲法が破綻した多くの理由の一つは、ドイツにおける主要な知的潮流のどれ一つとしてそれを擁護する用意がなかったという事実です。そのなかには、ハイデガーやトーマス・マンといった主導的な哲学者や作家が含まれます。
4-8
結論をまとめましょう。政治哲学は、本質的な政治的原理や理想の源泉を提供する際に、一般の背景文化の一部として少なからぬ役割を果たします。それは、民主的な思想や態度の根本を強化する役割を果たします。
政治哲学はこのような役割を、日々の政治においてというよりもむしろ、人格や政治社会の一定の理想的な構築に向けて市民を —— 彼らが政治に参加するに先立って、そして生涯のうちで省察の傾く時機に —— 教育する際に果たすのです。
5
5-1
一社会の政治には、正義原理や共通善に誠実に訴えることを鼓舞するようなものが何かあるでしょうか。政治は端的に、権力と影響力をめぐる —— 誰もが自分の利益を貫徹しようとする —— 闘争に尽きるとなぜ言えないのでしょうか。ハロルド・ラズウェルはこう語りました。
「政治学は、誰が何をどのように得るかについての研究である」
それで政治については言い尽くされているのでしょうか。政治はもっと別のものでもありうると考えるわたしたちは、冷笑家の言うようにナイーブなのでしょうか。
もしそうだとしたら、正義と共通善をめぐるすべての話は、十分な理由を挙げることによってではなく、ただ、わたしたちの語ることによって何らかの仕方で人々を惹きつけ、わたしたちの見解を他の人々に受け入れさせるような、心理学的な効果をもつシンボルの操作にすぎない、ということになってしまうのでしょうか。
5-2
冷笑家が道徳的・政治的な原理や理想について語ることは正しいことではありえません。というのも、もしそれが正しかったとしたら、そうした〔道徳的・政治的な〕原理や理想を参照し、それに訴える道徳や政治の言語や語彙は、とっくに引き合いにだされることがなくなっていたはずだからです。
特定の集団やその指導者が純粋に操作的で、集団の利害にもとづくやり方でそうした規範に訴えるにすぎないとしたら、そのことを見抜くことができないほど民衆は愚かではありません。
もちろんこのことは、正義や公正や共通善という原理に、しばしば操作的な仕方で訴えがなされている、ということを否定しません。そのような操作的な訴えは、しばしば同一の原理が、それを重要だと認識し信頼を寄せるに値するものだと考える人々によって、誠実に引き合いにだされていることに、いわば寄生しているにすぎないのです。
5-3
市民が政治に初めて参入する際にまずどのような観念をもつかを左右するのは、次の二つだと思います。
一つは、市民がそこで成長する政治システムの質です。もう一つは、背景文化の内実です。
つまり、背景文化がどの程度まで市民に民主的な政治の観念を教え、その意味について市民が省察するよう導いているかということが重要なのです。
5-4
政治システムの性質は、政治行動や政治原理の諸形態を市民に教えます。
民主的なシステムではうまいことに、政党の指導者たちは、彼らが実効的な多数派を形成する際に、少なくとも彼らの明確な公共的・政治的プログラムについては正義や共通善の一定の原理によって制約される、ということを市民は知っています。
ここでもまた冷笑家が、正義や共通善という公共的原理へのそのような訴えは自己利益にもとづくものにすぎない、なぜなら、実効性を保持するためには、集団は「システム内」のものとして承認されなければならず、そのことは、集団の行動が、そうした原理に整合するさまざまな社会規範を尊重するものでなければならないことを意味するからだ、と口を挟むかもしれません。
この主張はなるほど真実ですが、逸しているものがあります。理に適った仕方で成功している政治システムにあっては、市民はやがて、そうした正義や共通善の原理に愛着をいだくようになります。しかも宗教的寛容の原理について言えば、それへの忠誠は純粋に —— 部分的にはそうだとしても —— 自己利益にもとづくものではありません。
6
6-1
〔第五の問い〕
次の重要な問いはこうです。
正義や共通善、政治的協働の公正な原理への誠実な訴えを妨げがちな政治的・社会的制度の特徴があるとしたら、それは何でしょうか。
ここで、わたしたちは、〔ある時期の〕ドイツが立憲デモクラシーの体制を達成しえなかったという事実から何かを学ぶことができると考えています
6-2
ビスマルク時代のヴィルヘルム・ドイツにあって政党がおかれていた状況について考察してみましょう。この政治システムの注目すべき特徴としては、以下の6点を挙げたいと思います
1. それは、絶対的ではないとしても非常に大きな権力をもった世襲君主制でした
2. この君主制は、軍隊〔プロイセンの貴族が将校の地位を占める〕が、君主制に反対する人民の意思から、それ〔君主制〕を守るという点で、軍事的な性格をそなえていました
3. 宰相と内閣は君主に仕えるものであり、立憲的な体制のように、帝国議会に仕えるものではありませんでした
4. 政党はビスマルクによって粉砕されており、彼はそれらを圧力団体に変え、見返りとしての経済的利益に訴えることによってその支持を引き出しました
5. 政党は圧力団体以上のものではなく、それゆえ統治しようと望むことはけっしてありませんでした。各政党は、他集団との妥協を困難にする排他的なイデオロギーをもっていました
6. 特定の集団を帝国の敵として攻撃することは、宰相のみならず、官僚にとっても不適切なことだとはみなされませんでした。そうした集団としては、カトリック教徒、社会民主主義者、民族的少数者、フランス人〔アルザス — ローザンヌ〕、デンマーク人、ポーランド人、そしてユダヤ人が挙げられます
(私見: 「ビスマルク時代のヴィルヘルム・ドイツ」 → ドイツ体制の変遷)
ビスマルク時代
https://ja.wikipedia.org/wiki/ヴィルヘルム1世_(ドイツ皇帝)
https://ja.wikipedia.org/wiki/オットー・フォン・ビスマルク
ワイマール体制
https://ja.wikipedia.org/wiki/ヴィルヘルム2世_(ドイツ皇帝)
https://ja.wikipedia.org/wiki/ヴァイマル共和政
https://ja.wikipedia.org/wiki/ドイツ共和国宣言
https://ja.wikipedia.org/wiki/ヴァイマル憲法
6-3
第4と第5の特徴、つまり、政党は圧力団体と変わるところがなく、支配すること —— 政府を組織すること —— を切望しないがゆえに、他の社会集団と妥協をはかったり、交渉したりする用意がなかったという特徴を考えてみましょう。
自由主義者には労働者階級が望むプログラムを支持する用意がなく、
他方、社会民主主義者はつねに産業の国有化と資本制システムの解体を力説し、自由主義者を怯えさせていました。
自由主義者と社会民主主義者が政府を組織するために協働できなかったことは結局、ドイツのデモクラシーに致命的な影響を及ぼしました。というのも、その影響はワイマール体制にまで存続し、悲惨な帰結をもたらすことになったからです。
6-4
この種の構造をもった政治社会は、諸々の社会階級や経済集団の間に大きな内的敵対関係をつくり出していくでしょう。それらは、適度の民主主義な体制のもとで一つの政府を組織するために協働することをけっして学ぶことがありません。それらはいつも、政府への支持と引き換えに、自分の利益をみたすよう宰相に請願する部外者として行動します。
なかには社会民主主義者のように、政府の支持者になるなどとは一度も考えたことのない集団もあります。こうした集団は、第一次世界大戦前夜のように最大多数の得票を獲得するにいたった場合でさえ、はっきりとシステムの外部に留まり続けました。本物の政党が存在しないのですから、政治家も存在しません。
人民の役割は、特定の集団を喜ばせるのではなく、何らかの政治的・社会的な民主的プログラムのもと、実効的な多数者として、結集することにあります。
6-5
いま指摘してきた政治システムの特徴にとどまらず、当時の背景文化や〔社会構造とともに〕政治思想に見られる一般的な傾向は、どのような主要な集団も立憲体制を達成していくために必要な政治的努力を払う気がない、というものでした。
多くの自由主義者のように、主要な集団が実際に立憲体制を支持する場合にも、その政治的意志は薄弱であり、宰相は、経済的な恩恵を与えることによってそうした集団を抱き込むことができました。
第2節 「政治哲学の四つの役割」
1
政治哲学が社会の公共的な政治文化の一部をなすものとして果たしうる4つの役割について見ていきましょう。この点については、『公正としての正義 再説』の第1節で詳細に論じましたので、ここでは簡潔にその要点を挙げるに留めたいと思います。
(私見:『公正としての正義 再説』第1部 基礎的諸観念 第1節「政治哲学の四つの役割」)
pp.3-9 参照
1.1 実践的役割
1.2 方向づけの役割
1.3 宥和という役割
1.4 政治的な実行可能なもの〔現実主義的にユートピア的なもの〕の限界を徹底的に調査すること
(a)
第一の役割は、実践的な役割です。
「実践的な役割」Pratical role
この役割は、分裂を引き起こす政治的抗争から生じます。
その際、政治哲学の課題は、深刻な論争の対象となっている問題に焦点を当て、そうした抗争の外観にもかかわらず、哲学的・道徳的合意の根底をなす何らかの基盤を顕わにすることができないかどうか、あるいは、市民の相互尊重に立脚した社会的協働がなおも維持されうるように、少なくとも意見の相異の幅を狭めていくことができるかどうかを検討することです。
(b)
私が方向づけと呼ぶ第二の役割は、理性と反省が果たす役割です。
政治哲学は、政治的・社会的制度全体について、市民たる自分自身について、そして歴史 —— 国民 nation —— をともなった一つの社会として自らの基本的な目標や目的 —— これは、個人としていだく目的や目標、家族やアソシエーションの成員としていだく目的や目標から区別されるものです —— について、人々がどう考えるかに貢献することができます。
(c)
第三の役割は、和解という役割 です。これはヘーゲルが『法の哲学』(1821年)において強調した役割です。
「和解」 reconciliation
(私見:「和解」)
ロールズ『公正としての正義 再説』の翻訳では、「宥和」という語を当てている
ロールズ『道徳哲学史講義』の翻訳では、「和解」という語を当てている
道徳哲学史講義 ヘーゲル Ⅰ ヘーゲルの『法哲学要綱』 第2節 「和解としての哲学」
道徳哲学史講義 ヘーゲル Ⅰ ヘーゲルの『法哲学要綱』#6982d0910000000000a16234
ここで「和解」という述語 —— ドイツ語の Versöhnung —— がふさわしいわけは、ヘーゲルの考えによれば自由を表現するのに最も適した諸制度の枠組みはすでに存在していることによる。それは現に目の前に存在しているのだ。
哲学、とりわけ政治哲学の仕事は、この枠組みを思考において把握することなのである。ひとたびそうすれば人間世界との和解がなされるにいたるだろう、というのがヘーゲルの考えである。
政治哲学は、社会やその歴史に対するわたしたちの不満や怒りを、
哲学的な観点から適切に理解するなら、社会の諸制度は合理的であり、世代を越えて発展してきた結果として現在の合理的な形態を獲得するにいたったのだと、その経緯を示すことによって、
鎮めることができます。
政治哲学がこの役割を果たすとき、それは正義にもとり擁護するに値しない現状を、ただただ擁護するという危険性に抗するはずです。
このことはマルクスの言う意味で、現状を一つのイデオロギー〔虚偽の思考枠組み〕にします。(注釈 8)
(注釈 8)
現状を「イデオロギー〔虚偽の思考枠組み〕」とする
マルクスにとってイデオロギーとは、社会システムがどのように作用しているかをそのなかにいる者たちの眼に見えにくくし、彼らがその制度の表層の下にあるものを見透かすことを不可能にする仕方でしばしば作用する、虚偽の思考枠組みのことである。
この場合、イデオロギーは、マルクスの見るところ、古典的な政治経済学が、資本主義のシステムは搾取のシステムであるという事実を見えにくくするのを助けたように、幻想を強化する。言い換えれば、イデオロギーは〔資本主義にとって〕必要となる欺瞞を支えるのに役立つ。
まともな資本家は、そのシステムが搾取的なものであるとは信じたがらない。そこで彼らは政治経済学の古典的な教義を信じ込む。この教義は、それが自由な交換の仕組みであり、すべての生産要素 —— 土地、資本、労働 —— をもって社会的生産に貢献したのに見合っただけのものを受け取る仕組みである、と彼らに確信させる。
この場合、イデオロギーは欺瞞を強化する。
(「マルクス講義Ⅲ」を参照)
(d)
第四の役割は、実効しうる政治的可能性の限界を探求する役割 です。
「政治的可能性の限界を探求する」 probing the limts of practicable political possibility
この役割を果たすとき、わたしたちは、政治哲学を現実主義的ユートピアとみなします。社会の将来にわたしたちが抱く希望は、社会的世界は少なくともまともな政治秩序を可能にし、したがって完璧ではないとしても、理に適った仕方で正しい、民主的な体制が可能であるという信念にもとづいています。
そこでわたしたちが問うのは、理に適った仕方で好都合な、だがなおも可能な歴史的秩序 —— 法や社会的生活の傾向が許す条件 —— のもとで正義に適った民主的社会とはどのようなものか、わたしたちに馴染みのある民主的な文化に正義の状況が与えられた場合、そうした社会はどのような理想や原理を実現してゆこうとするのか、という問いです。
第3節 「リベラリズムの主要な観念 —— その源泉と内容」
1
1-1
この講義の大半は、リベラリズムの構想、および、その四人の主要な歴史的人物、そして、その最大の批判者の一人を取り上げますので、
私がリベラリズムをどう理解しているのかについて、少し話しておいた方がいいでしょう。リベラリズムには確定した意味はありません。それは多くの形態と多くの特徴があり、それを相異なった仕方で特徴づける著作家がいます。
1-2
リベラリズムの主要な歴史的源泉は次に挙げるものです。
第一に、宗教改革、および16世紀、17世紀の宗教戦争。この戦争はまず、寛容と良心の自由の原理を不承不承、受容することをもって終結しました。
第二に、王室の権力を台頭する中産階級が徐々に制御し、制限君主制という立憲体制が確立されたこと。
第三に、労働者階級が勝利してデモクラシーと多数者支配を獲得したこと。
こうした展開は、異なった時期にヨーロッパや北米の異なった国々で生じました。
とはいえ、イングランドについて考えれば、
1. 良心の自由は17世紀末にはその達成にかなり近づきましたし、
2. 立憲政府は18世紀を通じて、また、
3. デモクラシーと多数者支配は19世紀の普通選挙権の確立によって、実現されてきたと概ね言えるでしょう。
もちろん、この進展は完了したわけではありません。リベラリズムの重要な側面は今日でもまだ達成されてはいませんし、達成にはまだまだ長い道のりが必要な側面もあります。リベラル・デモクラシーと称される既存の体制はみなかなり不完全なものですし、民主的な正義が獲得すべきと思われるものの達成にはまだ程遠い状態にあります。
1-3
たとえば、アメリカ合衆国でいま必要とされる五つの改革を、ここで挙げてみましょう。
第一に、権力へのアクセスを貨幣で購うあながうことのできる現行システムを克服するための選挙資金改革。
第二に、教育機会の公正な平等。
第三に、万人にヘルスケアを保証する何らかの形態。
第四に、社会的に有益な仕事を保証する何らかの形態。
最後に、女性にとっての平等な正義と男女平等。
これらの改革は、差別や人種主義の最悪の側面が廃棄されないなら、中途半端なものにとどまるでしょう。
他の人も、その重要性が同様に否定できないような不可欠の改革のリストをもっているはずです。
2
2-1
リベラルで政治的な正義の構想は、その意味を広くとるなら、その内容として三つの主要な要素をそなえています。すなわち、
〔リベラルで政治的な正義の構想の、三つの主要な要素〕
〔第一の要素:〕 平等な基本的諸権利と諸自由からなるリスト
〔第二の要素:〕 これらの〔諸権利と〕諸自由の優先
〔第三の要素:〕 社会の全成員に、これらの諸権利と諸自由を活用していくうえで適切な汎用的手段を保証すること
〔諸自由が一つのリストによって示されることにご注意ください。〕
これらの三つの要素については後でより明確に規定することにしましょう。
2-2
〔リベラリズムの内容の第一の要素〕
〔平等な基本的諸権利と諸自由からなるリスト〕
一般的な観念を挙げましょう。平等な基本的諸自由〔のリスト〕は、
1. 平等な政治的諸自由 —— 投票し、公職に立候補する権利、あらゆる種類の自由な政治的言論の権利 —— を含みます。
2. それはまた、市民的諸自由 —— 自由な非政治的言論の権利、自由な結社の権利、そしてもちろん、良心の自由の権利 —— を含みます。
3. これらの自由に加えて、機会の平等、移動の自由、自分自身の精神および身体への権利〔人格が損なわれないこと〕、個人的所有の権利、そして最後に、法の支配がカバーする自由および公正な裁判への権利、
〔これらが、〕平等な基本的諸自由に含まれます。
2-3
いま挙げた基本的諸自由のリストは、もちろん馴染み深いものです。難しい問題は、これらの諸自由をより正確に規定したり、相互に対立する場合にそれらをどう順序づけるかにあります。ここで本質的な事柄は、リベラリズムが自由そのものというより、むしろ諸自由の特定のリストに与えている大きな意義を強調することです。このことを心に留めておきましょう。
リベラリズムの内容の第二の要素は、諸自由には一定の優先性、すなわち、一定の力と重みが与えられるということです。
〔諸自由の優先〕
このことは実際、諸自由は通常、より大きな社会福祉を達成するために、あるいは卓越主義的な価値のために犠牲にされることはありえない、ということを意味します。しかもこのような制約は、実践的に見て絶対的なものです。
2-4
リベラリズムの内容の第三の要素は、
〔適切な汎用的手段の保証〕
先に示したように、その原理が、社会のすべての成員に対して自分の自由 —— 第一および第二の要素によって具体的に列挙され、優先性を与えられた —— を活用していくうえで十分な汎用的な物質的手段への要求を与えるということです。
この汎用的手段 all purpose means は、私が基本善 primary goods と呼ぶものに含まれます。基本善は、基本的諸自由と平等な機会に加え、所得と富、そしてたとえば教育やヘルスケアなど、必要な財への要求を適切なものとして含みます。
2-5
リベラルな見解〔リベラルで政治的な正義の構想〕の内容は、これら三つの要素をそなえる、と述べることで私が言いたいのは、どのような馴染みのあるリベラルな見方も、程度の差はあれ、この広範な記述に適合するということです。
相異なったリベラリズムは、それらがこれらの要素をどのように特定し、そうするためにどのような一般的な論拠を用いるかによって区別されます。
それらのなかにはしばしば、〔それは〕リベラルである、と描かれる、自由至上主義〔リバタリアン〕な見解があります。この見解は、市民が自分の自由を活用していくうえで十分な汎用的手段を市民に保証するという第三の要素を挙げていません。この要素が欠けているという事実こそ、とりわけ、それが自由至上主義的なのであって、そのことが、これがリベラルではない所以ゆえんです。自由至上主義は第三の要素に適合しません。
〔自由至上主義〔リバタリアン〕はリベラリズムではない〕
もちろんこれは、自由至上主義に反論する論拠ではなく、その内容に対する私のコメントにすぎません。
第4節 「リベラリズムの中心テーゼ」
1
1-1
何をリベラリズムの中心テーゼとみなすかについて、いくつかの候補がある —— 基本的な諸自由の保証は明らかにその候補の一つです —— ことは言うまでもありません。著作家はこの点について見解を異にするでしょう。とはいえ、一つの中心的な要素は明らかに次の点にあります。
1-2
〔正当化、正統性〕
正統な体制というものは、その政治的・社会的制度がすべての市民にとって —— 各市民、しかもあらゆる市民にとって —— 正当化されうるものです。その正当化は、市民の理論的および実践的な理性に呼びかけることによってなされます。
繰り返して言えば、社会的世界の制度の正当化は、原理的に、あらゆる人にとって理解可能なもの、したがって、その制度のもとに生きるすべての人にとって正当化可能なものでなければならないのです。
リベラルな体制の正統性 legitimacy は、そのような正当化 justification に依存しているのです。
1-3
政治的リベラリズム〔公正としての正義はその一例です(注釈 11)〕は、宗教や伝統の重要性を拒絶したり、それを疑問視することはありませんが、法によって課される政治的要求や責務は、市民の理性と判断に適合するものでなければならないと強く主張します。
(注釈 11)
公正としての正義とは『正義論』および『公正としての正義 再説』において展開した政治的構想にロールズが与えた名前である。
1-4
〔社会契約〕
各市民の理性に対し正当化するというこの要請は、社会契約の伝統、したがって、正統な政治秩序は全員一致の合意に依拠するという観念と結びついています。
〔社会〕契約による正当化の目標〔目的〕は、社会の各成員はこの秩序に同意し、他の市民もまたそれを承認するという条件のもとで、それを承認する十分な理由をもっていることを示すことにあります。これが全員一致の合意を生みだすのです。
引き合いに出される理由は、理に適った合理的な各人格の観点から見た理由でなければなりません。
1-5
〔社会契約に対する、ロックの見解〕
「人間すべては、すでに述べたように、自然によって、自由、平等かつ独立であるから、誰も、自分自身の同意なしにこの状態を離れて他者のもつ政治権力に服従させられることはありえない。
各人が自分の自然的自由を放棄し、政治社会の拘束のもとにおかれるようになる唯一の道は、他の人と合意して一つの共同体に加入し結合することによってである。それは、自分の固有権 property と、共同体に属さない者に対するより大きな保障と安全を享受することを通じて、互いに快適で安全かつ平和な生活を送るのである。」(ロック『統治二論』第2篇 第95段落)
岩波文庫版 後編「政治的統治について」 第8章 「政治社会の起源について」第95段落
p.406
95
すでに述べたように、人間はすべて、生来的に自由で平等で独立した存在であるから、誰も、自分自身の同意なしに、この状態を脱して、他者のもつ政治権力に服することはできない。
従って、人々が、自分の自然の自由を放棄して、政治社会の拘束の下に身を置く唯一の方法は、他人と合意して、自分の固有権 property と、共同体に属さない人に対するより大きな保障と安全に享受することを通じて、互いに快適で安全で平和な生活を送るために、一つの共同体に加入し結合することに求められる。
この合意は、どれだけの人数の人間によってもなされることが許されるであろう。彼らは、それによって、自然状態の自由のうちにとどまる他の人間の自由を侵害することはないからである。
こうして、どれだけの数の人間であろうと、人々が一つの共同体あるいは統治体を作ることに合意した場合、彼らは、それによって直ちに結合して一つの政治体をなすことになり、そこでは多数派が決定し、それ以外の人々を拘束する権利をもつのである。
1-6
ロックから引いたこの一節を読むと、合意は、市民が実際にある時点で交わすもののように思われますし、いずれにしてもこの解釈は排除できません。
〔社会契約に対する、カントの見解〕
カントにおいては、私たちはこれとは異なった考えを見出します。根源契約〔原初契約〕は、現に存在するすべての私人の現実の連合から生じると想定することはできない、なぜならそれは不可能だから、とカントは述べます。
「〔根源契約は〕実際、たんなる理性の理念である。
にもかかわらず、この理念は疑う余地のない実践的なリアリティをもっている。というのも、それは立法者に対して、彼が法を制定するにあたって、その法が国民全体を一つに統合された意思にもとづいて生みだされたかのような仕方で制定するよう義務づけるからである。 —— それはあらゆる公法の正当性の試金石である。
言い換えれば、国民全体がそれに同意するのが不可能であるような公法〔たとえば、臣民のなかのある階級が世襲的に支配者の階級たる特権をもつというような公法〕は、不当である。これに対して、国民がそれに同意することが少なくとも可能でありさえするなら、その法を正当なものとみなすことは義務である。たとえば国民が現時点において、賛否を問われたなら、おそらく同意するのを拒むであろうような心の状態や気分であるとしても、それは関係がない。」(カント『理論と実践』 A:8:297 )
カント全集 14 『理論と実践』Ⅱ 国法における理論と実践の関係について〔ホッブズへの反論〕
道徳哲学史講義 ヘーゲル II 人倫とリベラリズム#69c34b9c000000000036a30f
pp.197-
さて、こうしてここに根源的契約が存在する。人々のあいだの市民的体制、したがってすみずみまで法がいきわたった体制がそのまま基礎とすることができるのは、この根源的契約以外にはありえないし、また、公共体は、この根源的契約に基づいてのみ創設されうる。
—— この契約〔これは原初契約、あるいは社会契約と呼ばれる〕は、一つの国民においてひとりひとり別々で私的な意志を、共通の公的な意志へと結びつけるものである。
根源的契約
根源契約、原初契約、社会契約
〔そしてそれは、ただ立法を正義にかなったものとするためにほかならない〕
しかし、こうした契約が事実として存在することを前提にする必要はまったくない〔それどころか、事実として存在することは不可能である〕。
別の言い方をしよう。はたして、われわれの祖先となるある一つの国民がかつて実際にこのような作業をおこない、そしてそれを示す確実な通知あるいは文書をわれわれに対して口頭あるいは書面で残しておいたにちがいなく、その結果としてわれわれは自分が既存の市民的体制に結びつけられているとみなし、そうしてその国民の権利および義務の諸関係の中に加わったのだろうか。そのようなことがまず最初にあらかじめ歴史に基づいて証明されるのでなければならないかのように考える必要など、まったくない。
ひとりひとりすべての立法者に対して、彼が法を制定するにあたって、その法が国民全体の一つになった意志に基づいて生じえたかのような仕方で制定するように義務づけること、そして市民であろうとするかぎりでのひとりひとりすべての臣民を、あたかも彼がこのような意志に同意したかのごとくみなすこと、
このことは単なる理性の理念である。
とはいえ、この理念は疑う余地のない〔実践的な〕リアリティをもっている。というのも、それはあらゆる公法の正当性の試金石なのだから。
いいかえれば、国民全体がそれに同意することが不可能であるような公法は不当である。これに対して、国民がそれに同意することが可能でありさえするのならば、その法を正当なものとみなすことは義務である。たとえ国民が現時点において、もしも賛否を問われたらおそらく同意を拒むであろうような心の状態や気分にあるとしても、それは関係ない。
2
2-1
〔社会契約についての見解の区別〕
ここで、社会契約についての相異なった見解の意味を理解し、互いを区別することを可能にするいくつかの区別について述べましょう。
2-2
〔第一の区別〕
その一つは、実際の合意と非歴史的合意の区別です。
1. 実際の合意〔歴史的合意?〕
2. 非歴史的合意
前者はロックに見出されるように思われます〔そう言えるかどうかについては、「ロック講義」にて論じます〕。
後者はカントに見られるものです。彼は合意はすべての意志の連合からのみ生じうると想定しています。
しかし、歴史的条件はけっしてこのような合意を許さない以上、彼〔カント〕の言う根源契約は非歴史的なものです。
2-3
〔第二の区別〕
第二は、〔社会〕契約の内容がどのように規定されるかについての区別です。つまり、
1. 実際の契約の条項によって規定されるのか、
2. 分析によって規定されるのか〔すなわち、契約を行なう人々の状況から、彼らが何について合意しうるのか、何について合意したいと思うのか、を明らかにすることによって規定されるのか〕、
3. 双方のやり方の何らかの組み合わせによってなのか、
という区別です。
カントは、ある面から、根源契約を理性の理念と呼びます。
というのも、理論的かつ実践的な理性によってのみ、私たちは、人民が何に合意しうるのかを理解できるのですから。この場合には、〔根源〕契約は仮説的です。
2-4
〔第三の区別〕
第三の区別は、社会契約の内容が、人民が何をなしうる —— あるいは、なしえない —— か、もしくは、人民が何をなしたいのか、のいずれに関わるかの区別です。
1. 何をなしうるか〔何をなしえないか〕
2. 何をなしたいのか
この二つはたいへん異なっています。
人民がなしうる、あるいは、なしえない事柄ではなく、人民がなしたいと思う事柄を表現する仮説的な契約の内容が何であるかを理解することは、しばしばはるかに困難なことです。
たとえば、ロックがチャールズ2世を攻撃するとき、彼が主として関心をもっていたのは、統治形態を確立する際、人民が君主の絶対主義に含意するなどありえないということを示すことにありました。したがって、王がそうした権力をもった主権者として振る舞う場合、彼の行動は正統ではないことになります。
ロックは、人民が何に合意したかったかということを示す必要はありません。彼はただ、人民がなしえない事柄から彼らがなしたいとは思わない事柄を推論するだけでいいのです。
〔ここでロックは次の命題に依拠しています。「もし、わたしたちが X をなしえないのなら、わたしたちは X をなしたいとは思わない」〕(注釈 13)
(注釈 13)
たとえば、
「 X をなしえない」は「 X をなそうとしない」を含意するが、
「 X をなしうる」は「 X をなしたい」を含意しない。
2-5
〔第四の区別〕
第四の区別は、社会契約の内容を、いかなる場合に統治形態は正統であるのかを特定するものとみなすのか、それとも、その内容を、市民が政府に対してもつ〔政治的〕責務を規定するものとみなすのか、という区別です。
社会契約という観念は二つの異なった目的に貢献しうるものです。つまり、
1. 政治的正統性という考え方を生みだすのか、
2. 市民の政治的責務に説明を与えるのか、
という二つの目的です。もちろん、社会契約論はどちらもなしえます。しかしこの二つの区別は重要な意味を持っています。
一つには、社会契約という観念は二つの場合において異なった仕方ではたらきますし、一方の場合にはきわめて満足のいくものであるのに対して、他方の場合にはそうでないことがあります。
私は、社会契約論に対するヒュームの批判は(注釈 15)、政治的責務に関するロックの説明に対しては有効ですが、正統性についてのロックの説明に対しては当てはまらないと考えます。私の見るところそうです。
(注釈 15)
ヒューム『原初契約について』〔『原始契約について』〕を参照
2-6
〔さらに他の区別: 社会契約の当事者〕
社会契約にはさらに他の区別、他の側面があります。たとえば、〔社会〕契約の当事者は誰なのでしょうか。
1. それは互いに契約を交わす全市民なのでしょうか、
2. それとも、主権者と契約を交わす全市民なのでしょうか、
3. あるいは、二つかそれ以上の契約があるのでしょうか —— まず市民相互の契約、次いで市民と主権者の契約という形で —— 。
ホッブズとロックにおいて、当事者は、互いに契約を交わす全ての市民です。主権者はけっして契約の当事者ではありません。つまり、第二の契約は存在しません。
この違いや、その他の違いについては、講義を進めるなかで考察することができるでしょう。
第5節 「初期状況」
1
1-1
〔初期状況〕
どの社会契約論も、歴史的なものであれ非歴史的なものであれ、社会契約が行われる状況についての説明を必要とします。この状況を「初期状況 the initial situation 」と呼びましょう。
〔社会〕契約論をともかく明確に展開するためには、この状況の数多くの側面が詳らかつまびらかにされなければなりません。そうでないと、それらの側面は合意されるものの性質からの推理に委ねられることになってしまい、誤解を招く危険性があります。
1-2
この状況には、特定しなければならない多くの項目があります。たとえば、
1. 初期状況に参加する当事者の性質は何でしょうか、
2. 当事者にはどのような知的・道徳的な力があるでしょうか。
3. 当事者は何を目標〔目的〕とし、何を欲するのでしょうか。
4. 彼ら〔当事者〕の一般的な信念はなんでしょうか。
5. 当事者はその特殊な環境についてどれだけ知っているのでしょうか。
6. 当事者にはどのような選択肢が開かれているのでしょうか。あるいは、当事者が取り結びうる契約とはどのようなものでしょうか。
これらの問いや多くの問いへの答えが、何らかの仕方で与えられなくてはなりません。そして、それぞれの問いへの答えにさまざまな可能性があるのです。
2
2-1
まずはじめに、当事者の性質について考察しましょう。
当事者は、ロックの場合のように、自然状態における人格なのでしょうか。
彼らはみな、カントの場合のように、社会の成員なのでしょうか。
それとも、そのいずれでもなく、公正としての正義が想定するような、社会を構成する個々の市民の代表者なのでしょうか。
2-2
原初契約とは何についての合意なのでしょうか。
1. ロック
それは、ロックの場合のように、何が正統な統治形態であるかについての合意なのでしょうか。
2. カント
それとも、それはカントの場合のように、社会の全成員が集合的に意志することが可能な事柄についての理解なのでしょうか。カントの議論においては、立法者は正当な法をテストするものとしてこの理解を用いることができます〔カントにおいてこれは、法を制定する際に主権者が従わなければならないテストです〕。
3. ルソー
それとも、原初契約は、ルソーの場合のように、おそらく彼が一般意志と呼ぶものの内容、すなわち一般意志が意志するのは何か、についての合意なのでしょうか。
2-3
4. 公正としての正義(1)
それとも、それ〔原初契約〕は公正としての正義が主張するように、正義の政治的構想の内容についての合意なのでしょうか。正義の政治的構想 —— 正義と共通善の原理や理想 —— とは、一つに統合された社会的協働のシステムの基本構造に適用されるべきものです。
5. 公正としての正義(2)
それとも、原初契約は、それにとどまらず、公正としての正義がまた主張するように、根本的な政治的問題や市民性の義務に関わる公共的理性の行使という制約についての理解を指すのでしょうか。
いかなる社会契約論も、これらの諸問題をどう扱うかについて決定し、それらを整合した一体性に結びつけるような諸問題へのアプローチを採用しなければなりません。
3
3-1
次に、当事者はどれだけのことを知っているのかという問いを考察しましょう。
最も理に適った答えは、当事者は、日常生活において彼らが知っているすべてのことについて情報をもつことだと考える人がいるかもしれません。情報が奪われるなら、誰にとっても悪しき合意が導かれるのは確実だ!そう考えることもできます。
3-2
さて、すでに受け入れられ、現に存在する正義の構想を適用する際に、通常、入手可能なすべての情報を求めることは、たいていは正しいことです。そうでなければ、その原理や基準を適切に用いることはできないでしょう。(注釈 16)
(注釈 16)
刑事裁判は例外である。
刑事裁判においては、配偶者が互いについて不利な証言をなしえないように、入手可能なある種の情報が証拠規則によって排除されることがある。
これは、公正な裁判とは何かを確かめるために役に立つ
証言拒否権?
https://ja.wikipedia.org/wiki/証言拒絶権
証言拒絶権(しょうげんきょぜつけん)とは、証人が一定の場合に証言を拒絶できる権利。証言拒否権ともいう。
刑事訴訟法 | e-Gov 法令検索
第十一章 証人尋問
〈略〉
第百四十七条 何人も、左に掲げる者が刑事訴追を受け、又は有罪判決を受ける虞のある証言を拒むことができる。
一 自己の配偶者、三親等内の血族若しくは二親等内の姻族又は自己とこれらの親族関係があつた者
〈以下、略〉
しかし、最初に正義の構想について合意したり、〔最初に〕正義の構想を採用することは、これとは別の問題です。その際、私たちは合意を達成しようと望みますが、完全な知識はしばしばそれにとって障害となります。
なぜなら、人々がたいていもっている種類の知識は、
果てしのない論争に行き着き、
ある人々を面倒な交渉へと駆り立て、
自分の取り分以上のものを手にしようとする手に負えない個人が、
活躍する舞台をつくりだしてしまうからです。
3-3
人々があまりにも多くの情報をもつ場合を見れば、こうしたことがどのように起こるかが理解しやすくなるでしょう。エルスター〔ヤン・エルスター〕が挙げているテニスの試合を見てみましょう。(注釈 17)
(注釈 17)
Local Justice: How institutions allocate scarce goods and necessary burdens (Russell Sage, 1992)
https://ja.wikipedia.org/wiki/ヤン・エルスター
https://en.wikipedia.org/wiki/Jon_Elster
第1のプレーヤーが2セットを取り、1セットを落とした第3セットの後で、雨のため試合が中断されます。そこで試合を終了しなければならないとしたら、プレーヤーは賞金をどのように分けるべきでしょうか。
5セットマッチ〔3セット先取〕とする
table:tennis
set 1 2 3 4 5
player 1 ◎ ◎ ✗ ? ?
player2 ✗ ✗ ◎ ? ?
第1のプレーヤーは、全賞金を主張するでしょう。
第2のプレーヤーは、それを半分に分けるべきだと言うでしょう。体調は万全で、第4セット、第5セットで挽回するだけの余力もまだ十分に残っていると主張して。
観客は、賞金は第1のプレーヤーに2/3、第2のプレーヤーに1/3ずつ分けるべきだと言うでしょう。
現在の環境における特殊な事情について誰も知らない以上、当の問題は試合が始まる前に決めれらているべきだったのは明白です。
3-4
とはいえ、その場合ですら、さほど事態は容易にはならないかもしれません。と
いうのも、いま述べたことに加え、第2のプレーヤーは、とくに第1のプレーヤーが年長で自分より早く体力を消耗し、しかも両者がこのことを知っていたとするなら、賞金を平等に分けることをなおも強く望むでしょうから。
また、その賞金がとても大きなものであるとして、一方が裕福で他方が貧しいとしたら、このことについての知識は事態をさらに困難にするでしょう。
したがって、両プレーヤーは、彼らの能力、彼らの体調、彼らの富、そして他の多くの事柄について誰も知らないような状況を想像する必要があり、特殊な環境を離れて、ルール、それもすべてのプレーヤーに一般に妥当するようなルールを決める必要があるのです。
このような仕方で、彼らは公正としての正義の言う無知のヴェールに近いものへと導かれます。
4
4-1
〔無知のヴェールの例〕
同じことを例証するために、明らかに政治的な重要性をもつ2つの事例を挙げましょう。
まず選挙区のゲリマンダリングの例を考えてみてください。
ゲリマンダリングとは、州、郡、地域の選挙区をある党派に有利になるような仕方で線引きすることを意味します。
この言葉は、マサチューセッツ州知事エルブリッジ・ゲリー〔アンチ・フェデラリストの一人〕に連なるジェファーソン派の人々が、州の政治的な支配権を維持しようとして、1812年に行ったことに由来します。
彼らは、そうするために、アンチ・フェデラリスト派の飛び地が含まれるように選挙区を引き直しました。その結果、選挙区の形は奇っ怪なものとなり、当時のある漫画家はそれをトカゲの姿〔サラマンダー〕に喩えました。これが「ゲリマンダー」の由来です。
4-2
これは、選挙区を決める厳格な規則が前もって採用されるのが最良であることを示す明らかな事例です。
それはまた、どのような知識が規則を採用する際に適切であり、どのような知識がそれを適用する際に適切かを区別することが、決定的に重要であることを例証します。
後者〔規則を適用する時〕と比べて前者〔規則を採用する時〕においては、異なった、より少ない情報が求められるのです。
4-3
これと同じ論点は、選挙を改革し、〔選挙に対する〕公的助成を確立する法案を通すことがなぜあれほど困難なのかを説明します。この事例においては、選挙にあたって最も資金を集めることのできる政党がこの種の改革を望まないこと、そして、その政党が政権に就いているとすれば、改革の努力を阻止しうることは明らかです。
二大政党制における両政党がともに腐敗し、巨額の資金を集めることができるとしたら、たとえば第三党が台頭するなど大きな政治的変化が起こらないかぎり、選挙改革を目指すそうした営為が実を結ぶことは実質的に不可能でしょう。
4-4
次いで、ダニエルズ〔ノーマン・ダニエルズ〕による医療ケアの扱い方とドゥオーキン〔ロナルド・ドゥオーキン〕の保健計画についても話しておきたいと思います。
誰もが自分の年齢を知らず、ただ、人生の異なった局面 —— 若年から老年まで —— を生き、ヘルスケアの必要もそれに応じて変化するということだけを知っているような状況において、社会はどれだけのヘルスケアを提供すべきかを人々が決定するというのが、彼らの一般的なアイデアです。
人々はヘルスケアへの必要と他の事柄への社会の必要とのバランスを図るだけではなく、ある時点での必要と、別の時点での必要とを釣り合わせなければなりません。私は、基本善の柔軟性を論じる際にこれと似たアプローチを採っています。(注釈 19)
(注釈 19)
ジョン・ロールズ『公正としての正義 再説』pp.168-176
第3部「原初状態からの議論」
第27節 「第一の基本的比較」
第28節 「議論の構造とマキシミン・ルール」
(私見: 第3部 第23節~第26節に、原初状態の概説が載っているらしい)
5
5-1
〔多くの無知のヴェールがある〕
こうした例はすべて、いわゆる無知のヴェールのような何かが必要であることを示唆しています。
とはいっても、多くの無知のヴェールがあります。あるヴェールは他よりも厚く〔より多くの情報を排除します〕、あるヴェールは異なった種類の情報を排除します。
エルスターの能力主義的メリトクラティック meritocratic な無知のヴェールに注目してみましょう。これは、市民の自然的な能力と技能に関する情報を許します。
またドゥオーキンは、市民が自らの大望や願望についても許すように、さらに情報の制約を緩めています。
この二つの見解を挙げるにとどめますが、これらは異なった結論を導くと予想することができます。
5-2
〔無知のヴェールと同様な効果〕
無知のヴェールと同一の効果は、他の諸要素を組み合わせることからも生じうるという点も言っておくべきでしょう。
たとえば、情報を排除するというよりもむしろ、人々に彼らがいま知っている事柄についての情報を許しながらも、契約は永遠に彼らを拘束するものであるとし、当事者が無限に隔たった未来へといたるその子孫たちに配慮すると想定することもできます。自分たちだけではなく自分の子孫をも守ろうとするとき、当事者は、大きな不確実性の状況に直面します。
このようにして、厚みのある無知のヴェールによって得られるのと、多少の違いはあるとしても、おおまかに見て同一の議論が得られます。
5-3
最後に、ユルゲン・ハーバーマスの討議倫理の観念と、それに関連するブルース・アッカマンの観念に注目したいと思います。
参加者の理想的な発話状況のうちに制約する一定の討議規則を用いれば、適切な道徳的内容をもった規範だけがあらゆる人によって普遍的に是認されうる、というのがその考えです。ハバーマスによれば、妥当な規範は、そうした理想的な討議状況のうちで確立されうるもの、回復されうるものです。無知のヴェールは存在しませんし、理想的な討議規則以外の制約もありません。一般的に受容されえない、その意味で、普遍化可能な利益を促進しないすべての規範を取り除くのに役立つのは、このような規則です。
5-4
こうしたさまざまな見解に触れたのは、初期状況という観念がいかに広範なものかを示すためです。実際、それは風変わりな観念、哲学者の突飛な考えではなく、ごく普通の観念ですし、直観にとても訴える観念だと私は思います。
それはルソーとカントにおいてすでに先駆的に明示されていると私は確信していますし、他の古典的な著作家においてもそうだということに疑問の余地はないと思います。
5-5
〔原初状態 the original position 〕
私は、公正としての正義の初期状況を「原初状態 the original position 」と呼びます。
それは、市民の代表者とみなされる当事者がそこで達成する合意が、社会的協働の公正な条項を特定する正義の政治的構想の内容 —— 原理と理想 —— を表すように特徴づけられています。
5-6
〔表象の装置〕
結論として私が強調したいのは、私がしばしば言及してきた原初状態は表象の装置〔表象 representation 〕だということです。
社会契約の伝統がもつ歴史をよく見れば、初期状況が多くの相異なった事柄を表象するためにもちいられてきたということがわかるでしょう。たとえ、著作家自身には表象の装置という観念が明確ではなく、理解されることさえなかったとしてもです。そう理解されるか否かに関わらず、初期状況はこれまでそのように表象の装置として用いられてきたのです。
〈了〉